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★【月刊Hanada最新号(2019年2月号)目次】「新春特別対談 安倍晋三総理大臣 上念司 日本経済を語り尽くす」「櫻井よしこ 有本香 入管法改正、黙殺された重大論点」「総力大特集 “徴用工"判決の罪状 」「長谷川幸洋 米中新冷戦で東アジアは激動」【新シリーズ TV偏向報道メッタ斬り2 藤原かずえ テレビ朝日『報道ステーション』後藤謙次氏の厚顔無恥】


★月刊Hanada2019年2月号
【本誌独占! 新春特別対談 】
 安倍晋三総理大臣×上念司 日本経済を語り尽くす


【徹底検証 大丈夫か? 入管法改正】
 櫻井よしこ×有本香 入管法改正、黙殺された重大論点


【総力大特集 “徴用工"判決の罪状 】
 西岡力 戦時労働者判決、本当の危険性
 崔碩栄 “徴用工"弁護団と日本共産党
 河井克行“徴用工"判決は韓国と北朝鮮の合作だ
名村良寛 文在寅政権、悪夢の600日 [現地緊急報告]
 鄭大均 “徴用工"大法院判決の「ラクダの鼻」
 室谷克実 劣化する反日(隣国のかたち)
重村智計 反日政策で「暗殺」される文政権(朝鮮半島通信)


【米中闘争の核心】
 長谷川幸洋 米中新冷戦で東アジアは激動 (巨弾新連載「未来を読む! 」
 湯浅博 全体主義の妖怪をどう迎え撃つか


【ゴーン逮捕の衝撃! 】
 八幡和郎 日本人が誤解しているゴーン騒動の盲点


【蒟蒻問答】
 堤堯×久保絋之 一足早く除夜の鐘がゴーン(笑)


【北方領土交渉の舞台裏】
 鈴木宗男 安倍総理で歴史は動いた


【追悼・勝谷誠彦】
 西川清史(前文藝春秋副社長) 駆け抜けて行った勝谷誠彦
 柳澤健 勝谷誠彦は大切な戦友だった
花田紀凱 勝谷、早過ぎるよ!


【新シリーズ TV偏向報道メッタ斬り2】
 藤原かずえ テレビ朝日『報道ステーション』後藤謙次氏の厚顔無恥


【新シリーズ対談 政治家の妻たち1】
 河井あんり×橋本久美子(橋本龍太郎夫人) 橋龍夫人は永田町一の賢夫人


【新シリーズ 地方“創政"1】
 丸田隼人 天下分け目の山梨県知事選挙


【シリーズ対談 御社の決まり手、教えてください! 8】
 舞の海秀平×星野佳路(星野リゾート代表取締役社長) 創造する星野リゾート


【グラビア特集】
 平成の両陛下2


【大反響連載! 】
 青山繁晴 澄哲録片片 さらり、ひらり、じんわりと護国の鬼
 平川祐弘 一比較研究者(コンパラティスト)の自伝9
北村稔 中国共産党97年目の真実6
西村眞 日本人、最期のことば・岩倉具視
 福島香織 現代中国残酷物語
 夫婦の風景13 ダニエルカール×和香


 加地伸行 一定不易
 山際澄夫 左折禁止!
九段靖之介 永田町コンフィデンシャル
田村秀男 常識の経済学
 門田隆将 現場をゆく
有本香 香論乙駁


 蛭゛芸子 電脳三面記事
 河村真木 世界の雑誌から
堤堯の今月この一冊 遠藤良介『プーチンとロシア革命』
 坪内祐三の今月この一冊 久米明『僕の戦後舞台・テレビ・映画史70年』
 向井透史 早稲田古本劇場


みうらじゅん シンボルズ
岡康道 すべてはいつか、笑うため。
 高野ひろし イカの筋肉
 秋山登の今月この一本+セレクション
 なべおさみ エンドロールはまだ早い バート・ランカスター(下)
なべやかん ユネスコ非公認・なべやかん遺産「ヘドラ」
 小林詔司 コバヤシ鍼灸院
 村西とおる 人生相談「人間だもの」
 爆笑問題 日本原論


 編集部から、編集長から


※休載
 工藤美代子 影の画帳「サザエさん」と長谷川町子
D・アトキンソン 二つの島国で
白澤卓二 大切なのは病気にならないこと
瀬戸内みなみ わが人生に悔いなし」
 堤堯 ある編集者のオデッセイ



1月号書評


メインは、”徴用工”問題である。
櫻井よしこ氏と西岡力氏による対談「”徴用工”を焚きつけた反日日本人」
・日本のマスコミは「徴用工判決」と報じているが、原告の4人は徴用工ではなく、1941~43年に「募集」によって渡日している。そのうちの2人は、平壌で日本製鉄の工員募集の広告を見て、担当者の面接を受けて合格し、その引率で渡日している。
・動員は三段階に分けられる。1939~41年に民間企業が朝鮮に渡って実施した「募集」、42~44年9月まで朝鮮総督府が各市、郡などに動員数を割り当てて民間企業に引き渡した「官斡旋」、44年9月~45年3月頃までの徴用令に基づく「徴用」である。
・当時、日本人男性の多くが徴兵され、極度の労働者不足となり、賃金が高騰しており、募集人員に対して約3倍の応募者があった。朝鮮人労働者は自発的に日本に来ていたのであり、不正渡航も横行していた。それに対し、日本は取り締まりを行い、不正渡航者約16,000人を強制送還した。
・「募集」では無秩序に渡航する出稼ぎ者の流れを止めることができないと判断し、「官斡旋」が始まった。その結果、個別渡航や不正渡航はほぼなくなった。
・企業側の募集に対して官が斡旋する際、該当する職場に行くか行かないかを労働者の自由意思によって決めることができた。納得いかなければ断る自由が彼らにはあった。
・官斡旋により約52万人が動員され、そのうちの40%が動員された職場から逃亡して、別のより待遇の良い他の職場に移った。逃亡の多さを待遇の悪さの例とする論があるが、それなら彼らは朝鮮に帰ったはずだが、実際は帰らずに別の好待遇の職場に移動した。渡航の手段として官斡旋を利用し、内地に着いたら隙を見て逃亡しようとしている者が60%もいたという調査結果さえ残っている。事前に連絡を取っていたブローカーの助けで別の職場に移るケースもあった。逃亡しても罰則などなかったのである。
・「朝鮮人徴用工の手記」によると、「壮行会が行われた」「月給140円を支給され、新しい寄宿舎にふかふかの布団があり、アワビや柿やみかんを食べながら毎晩酒盛りができた」と記されている。
・1965年に朴正煕大統領との間で締結された日韓請求権協定では、「完全かつ最終的に解決する」と明記された。その際、日本は繰り返し個人補償を申し出たが、韓国側は政府への一括支給を主張して譲らなかった。2005年に廬武鉉政権の下で民官共同委員会が組織され、日韓請求権協定の交渉文書の徹底した調べ直しが行われ、資料を精査した結果、05年8月26日、徴用工への補償はなされており、もはや韓国側に請求する権利はないとの見解を正式に発表した。さすがの廬武鉉政権も、元徴用工や募集、官斡旋で渡日した元戦時労働者の補償問題については、日韓請求権協定の適用内であり、日本側に追加の賠償を要求するのは困難との結論に達していたのである。
・韓国政府は1975年と2008年に二回、未払い賃金や貯金があった者への清算を行っている。今回、「強制貯金をさせられた」と主張している原告も、この時に清算を受けられたはずである。補償は日韓両国を通して二度も終わっている話なのである。
・今回の騒動も、「日韓併合は国際法上違法だった」と主張する反日日本人が韓国側に焚きつけて裁判を起こさせたのである。東大名誉教授やノーベル賞作家など、おなじみの名前が挙がっている。
・廬武鉉大統領は2005年から、多額の国費を投じて東アジア歴史財団を作る一方、全世界で日本を非難する外交戦争を展開し、それが現在まで続いている。ところがその間、日本政府は戦時労働者問題も慰安婦問題も放置し続けてきた。彼らの主張や資料が偏って間違っていても、それを証明するにはきちんとした資料に基づく研究を出さなければならない。さもないと、嘘が国際社会でも次々と定着していきかねない。
・いま韓国では、約22万人が元徴用工と認定されている。22万人に対して1千万円ずつ払うとなると、総額は2兆円を超える。日本政府は全面的に介入して断固として民間企業を守らなければならない。間違っても、日韓共同の基金など作ってはならない。
・日本政府は、歴史問題での国際広報の専門部署と廬武鉉政権が作った東北アジア歴史財団に匹敵する予算と人材を十分に使った研究機関を早急に立ち上げ、官民あげて国際広報を強化して対峙しなければ、本当に手遅れになる。安倍政権の手腕が問われている。


百田尚樹×有本香 「『日本国紀』を語りつくす」
百田氏が「日本国紀」を書こうと思ったきっかけは、昨年のケント・ギルバート氏との対談だという。ケントさんが「アメリカの歴史教科書で学ぶと、子供たちはみんなアメリカが好きになります。そして、アメリカに生まれたことを誰もが誇りに思います」と言うのを聞いて、「本来、歴史教育とはそういうもんやな」と感じ、同時に日本にそうした日本史の本がないのかと残念に思った。その時、なければ自分で書けばいいんだと気づいたという。
負の歴史はどの国にもあるが、それは子供たちが成長し、様々な知識を得たうえで学べばいいことで、何も知らない無垢な子供たちに、いきなり負の歴史を教える必要はない。現代の学校教育は、むしろ負の歴史ばかりを教えており、酷いのになると、その中に捏造の歴史まである。そんな歪んだ歴史ではなく、読んだ人、誰もが日本が好きになる、日本に生まれて良かったと感じてもらえる日本通史を書こうと思ったという。
これまで読んだ日本史関連の本も改めて全て読み返し、新たに膨大な資料も徹底的に読み込んだという。小学館と集英社から出ている「学習まんが 日本の歴史」は、事象だけが書かれた歴史教科書にはない面白さがあり、参考になった。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)の語源は同じで、「日本国紀」を書くにあたって、「歴史は物語である」ということを常に意識したという。
有本氏は、百田氏から送られてくる原稿を読んで、「日本国紀」では、それぞれの歴史的事象がどのように起きて、どのように結びついているのかという因果関係が見事に書かれていることに感心したという。しっかりと立体的なストーリー(物語)になっているので、歴史的事象や人物名は知っているけど因果関係はいま一つよく知らなかったという読者も、なるほどと納得したり驚いたりすると思うと述べている。




浅田真央は何と戦ってきたのか - フィギュアの闇は光を畏れた - (ワニブックスPLUS新書) 新書  – 真嶋 夏歩 (著)


「はじめに」で、著者の真嶋氏は、浅田真央が引退を発表した時のテレビの過熱ぶりを苦々しく感じたと述べている。それまで散々、真央さんを冷遇していたマスコミが、全局上げての「浅田アゲ」に一変。視聴率狙いの姑息な演出と批判している。


まず、真嶋氏はISU(国際スケート連盟)が2007-2008年シーズンから、踏切エッジの厳格化や回転不足の認定が厳しくなったことから、安藤美姫はフリップの、浅田はルッツのエッジ矯正に苦しみ、両者とも連続ジャンプのセカンドの3回転ループが認定されることがほとんどなくなったことを取り上げている。もちろんルールの厳格化そのものは悪いことではないが、それは「すべての選手に平等に適用される」ことが前提である。キム・ヨナのフリップジャンプについては、「エッジエラーでは?」との指摘が度々なされていたにもかかわらず、軽度のエッジエラーの判定しかなく、しかもGOE加点が与えられていた。エッジエラーで加点を与えられたのは、当時はキム一人だけだった。


次に、ソチ五輪で、韓国側は「3連続ジャンプでミスをしたソトニコワが、パーフェクトな演技だったキムより得点が上回るのはおかしい」と抗議したが、キムが4種類6トリプルだったのに対し、ソトニコワは5種7トリプルでジャンプの基礎点で勝っているうえ、キムはスピンやステップでもレベルのとりこぼしがあったので、妥当だと述べている。
そして、浅田真央のフリーは6種8トリプルを着氷し、スピン、ステップすべての要素をレベル4で揃え、基礎点は全選手中トップで、多くの人が女子シングル史上最高の演技と讃えるものだったが、演技構成点(PCS)が抑えられ、フリーの得点は3位。真嶋氏は、「PCSについて、私自身は納得のいく説明を、今まで一度も聞いたことがない」と述べている。


笑顔で、またはガッツポーズで演技を終えた選手が、回転不足を取られ、得点を見て呆然とする。浅田が「こんなに良い形で跳べたのは初めて」と語ったTアクセルが、判定では軽度の回転不足といった不可解な判定は何度もあった。
鈴木明子のコーチの長久保氏は「ジャッジ席のメンバーを見た時点で『あ、これは明子が負けるわ』と思った」と語っていた。つまり、ジャッジによって「同じ演技内容でも点数は変わる」のだ。
2014年の全日本選手権女子シングルのSPは、ジャンプの回転不足判定が非常に多く、フリーでは回転不足を意識し過ぎたのか、選手たちがタイミングを外したり力んでしまった結果、ジャンプで失敗するシーンが目立った。「回転不足への厳しい判定」に異を唱えているのではない。「前の試合では認定されたジャンプが、今回は認定されなかった」という「判定に一貫性がない」ことが選手たちを苦しめているのだ。


ソチ五輪のロシアのペアの金メダリストが「明らかに悪い滑りをしたのに、勝ったことが何度もあった。僕たちよりも良い滑りをして負けた人たちの目をどのように見たらよいのか分からなかった。だから、審判団には著名なアスリートがいないのだと思う」と語っている。フィギュアの現場では「公平さに欠ける採点が行われている」ということだ。
スター選手が明らかなミスをしていながら表彰台に上がる光景は珍しいものではないし、ジャッジに愛され、表彰台をキープし続けていた選手が突然はしごを外され、得点に困惑した表情を浮かべる様子も、何度も見てきた。採点が絶対評価であるなら、こんなことは起こりえないと、真嶋氏は主張する。
バンクーバー五輪のフリーの後、キム・ヨナとカナダのロシェットの点数だけが異様に高いと、ヨーロッパの審判団の中でも首を傾げる人もいたという。リレハンメルと長野五輪男子シングル銀メダリストのエルビス・ストイコは、「ISUは誰が勝つか負けるかコントロールしたがっている。ジャンプよりもPCSに重きをおけば、彼らは好きなようにできる」と語っている。


ソチ五輪シーズンの前年、GPファイナルで浅田が優勝した数日後、日本スケート連盟の城田憲子強化部長は、スポーツ新聞のコラムで「今のままでは、真央はヨナに勝てない。『白鳥の湖』を子供っぽく演じている」と評した。自国の連盟にすら評価されない選手に対して、各国のジャッジは「迷いなく低い評価をつけられる」と考えたことだろう。
またISU技術スペシャリストの天野真は、浅田真央のTアクセルの判定に厳しく、彼の名前が紹介されると、客席からジャッジ席に向かってブーイングが起きたほどである。実際、天野氏が技術パネルだった時と天野氏不在の試合とでは、Tアクセルの成功率がかなり違っていたのである。そして、その天野氏が技術パネルを務めた回数は突出して多く、「偶然ではないと思う」と真嶋氏は述べている。
ソチ五輪選考会となる2013年の全日本選手権で、連盟が技術パネルの一人として任命したのが天野氏で、浅田は、SP、FSで挑んだ3本のTアクセルすべてを失敗、総合3位となった。自国のトップ選手と相性の悪いジャッジを連盟自ら任命する明確な理由が見つけられない。総合力で「金メダルを獲らせる」セオリーとは、あまりにもかけ離れていると、真嶋氏は述べている。
そして、ソチ五輪での浅田のSPの失速は、団体戦と女子シングルの間のアルメニア合宿の酷さが原因だったことが語られる。世界で最も金メダルに近かった選手を団体戦と直前合宿で消耗させ、女子シングルのメダルを失ったのは、「連盟の敗北」ではなかったか、と真嶋氏は主張する。
平昌五輪では、団体戦後の最終調整を日本国内のリンクで行えるようになった。これは浅田の前例を踏まえたうえで、アスリート委員会から理事会への提言が議決された結果だという。連盟にも「失敗した」という自覚はあったのだ。


トリノでの荒川静香の金メダル以降、連盟の関心は「男子シングル史上初の金メダル」に集中していたし、ISUとしても、トリノ、バンクーバーと続いたアジア人女子金メダリストから、自分達白人の手にメダルを取り戻すことは、規制路線だったことだろう。浅田自身はそんな嵐の中、Tアクセルと共に目指した道を歩み続けた。
「そんなに採点に不満があるなら、見なければいいんじゃない?」
本当にその通りだ。しかし、ときとして理不尽で、矛盾に満ちた競技だからこそ、ファンはスケーター自身、その生きざまを応援する。それはフィギュアがたった数分の間に演技者そのもの、人間そのものを氷の上に映し出す、素晴らしい競技であるからだと、真嶋氏は述べている。


読んでいて辛くなることがしばしばだった。連盟の冷遇がなかったら、真央さんはもっと勝てたのにと思うと、悔しくてならない。2018年は、スポーツ界のパワハラが次々に表面化した年だった。もっと選手が抗議や不満を口にできる体制にならなければ、選手が実力を発揮できず、潰れてしまうということが今後も起きるだろう。
月刊「Hanada」1月号に掲載されたデニス・テンの記事も収録されている。


。。。。


蒼い空へ:夫・西城秀樹との18年 単行本  木本 美紀 (著)
最初に、普段通りの夕食の後、突然倒れた時のことが書かれている。心臓マッサージをしたものの意識は戻らず、病院に運ばれてからようやく心臓が動き出したものの、医者から、回復の見込みはないと告げられる。脳死状態で「あと4日。もって1週間」と告げられた。
しかし秀樹さんは、そこから3週間持ちこたえる。長女は毎日、学校が終わると病室にやって来て、いつもと変わらない調子で話しかけた。長男は「かっこいいパパ」が病室でチュ-ブに繋がれている姿を直視できなかったのか、滅多に来なかった。次男は毎日病室に来て話しかけたが、体調を崩し、吐き気や頭痛を訴えた。
そうして22日後に、秀樹さんは逝った。


秀樹さんは若い頃から糖尿病を抱えており、糖尿病だと子供ができにくいので、子供ができないかもしれないと分かっての結婚だったが、間もなく美紀さんは妊娠し、秀樹さんの喜びようは半端なかったという。日に何度も「大丈夫?」と声をかけ、色々な人に会わせて自慢したという。
秀樹さんはインテリア好きで、綺麗好きで、家は「美術館」のようだったが、怪獣のように暴れ回る子供たちに壁や家具を汚され、その都度業者を呼んで綺麗にしていたが、次第にそれも減っていった。子供たちの笑顔と引き換えに、自分のこだわりや美意識を横に置いてくれたのである。


ニュースになったのは二度だけだったが、実は秀樹さんは脳梗塞で8回も入院したという。二度目(5回目の脳梗塞)のダメージの時は、芸能活動どころか、日常生活にも支障をきたす程だったが、厳しいリハビリの結果、杖を使えば外を歩けるまでに回復した。その後、また隠れ脳梗塞が見つかって入院の繰り返しだったが、ステージではそれを感じさせなかった。仕事となるとスイッチが入るという。「仕事」は大きな治療のひとつだったかもしれないと、美紀さんは述べている。
しかし、原因不明の船酔いのような「目が回る」という病状も起き、転ぶことが多くなった。それまで、子供の学校行事にも積極的に参加していたのに、すっかり出不精になってしまった。そんな状態でも仕事をこなし、還暦のライブも開催できた。
しかしその後、体調は少しずつ下降していき、口数も少なくなっていった。仕事も減っていき、感情も薄くなっていった。家の中で転ぶことも多くなり、日課の散歩も難しくなっていった。先の見えない闘病の日々だったが、家族5人が一緒にいられる、そんな日々が少しでも長く続く事だけが支えの日々だったという。
亡くなってから葬儀まで10日間もあったので、子供たちにとって、大切な時間になったという。
秀樹さんが逝ってからテレビで追悼番組が放送され、若い時の映像が流された。3人の子供達が生まれた時からすでに秀樹さんは病を抱えていて、ちょっとよくなっては具合が悪くなるの繰り返し。そんな彼らから見ると、若い頃の秀樹さんの映像は別人のように見えただろう。次々と流れるピカピカの秀樹さんを、子供達は黙って見つめていたという。


秀樹さんがそれほどまで深刻な病状ながら、数々のステージをこなしていたことに驚きを感じた。「引退」という言葉を秀樹さんの口から聞くことはなかったという。「最後の最後まで歌手でありたかった。歌を歌うこと、ステージを見ていただく事、そのことが自分の使命と信じ、そのモチベーションがどれほど秀樹さんの生きる支えになっていたことでしょう。」
秀樹さんのプロ魂とそれを支えた家族愛が感じられ、美紀さんに「いい話をありがとう」とお礼を言いたくなった。
秀樹さんの若い時や、幼い子供たちとの家族写真など、写真のページが8ページある。ファンでない人にもお勧めできる。