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12/11(月)【ザ・ボイス】長谷川幸洋・森本敏「対北朝鮮、今後のカギを握るのは?」「フランス・イスラエル首脳会談 エルサレム問題の議論は平行線」など、【プライムニュース】櫻井よしこ・木村太郎“北朝鮮&中東”危機 衝突秒読み観測の真偽、江崎道朗のネットブリーフィング「緊迫北朝鮮情勢!12月18日がXデー?!野党が未だにモリカケやる理由が判明!」&【倉持麟太郎独占手記】(若干書き起こしメモ)


2017/12/11(月)ザ・ボイス 長谷川幸洋×森本敏 特集『激論!これがニッポンの重要課題だ!』「フランス・イスラエル首脳会談 エルサレム問題の議論は平行線」など



ゲスト 森本敏(安全保障スペシャリスト・拓殖大学総長・元防衛大臣)



≪特集≫


対北朝鮮、今後のカギを握るのは?



≪取り上げたニュース一覧≫


フランス・イスラエル首脳会談 エルサレム問題の議論は平行線


ノーベル平和賞授賞式 被爆者のサーローさんらが演説


自公税調会長 年収850万円以上は増税で一致



プライムニュース! 2017年12月11日 17.12.11 


“北朝鮮&中東”危機 衝突秒読み観測の真偽


櫻井よしこジャーナリスト 国家基本問題研究所理事長


木村太郎ジャーナリスト






【12月11日配信】江崎道朗のネットブリーフィング「緊迫北朝鮮情勢!12月18日がXデー?!野党が未だにモリカケやる理由が判明!」おざきひとみ【チャンネルくらら】



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●ヨガ議連発足


●緊迫する北朝鮮情勢、漂着船と、生物化学兵器の可能性


●中国、ロシアは朝鮮動乱期に領土を狙ってくる?


●トランプ政権の対外政策はミアシャイマー「オフショア・バランシング理論」?


●野党が未だにモリカケ追求をやめない理由が判明


●野党の支持母体、旧同盟系労組幹部にリクエスト!


●UAゼンセンは拉致問題にも取り組んでいる


●年内にXデーはあるのか?米軍はいま・・







【倉持麟太郎独占手記】「公共性」を忘れた週刊誌報道に言いたいこと




倉持麟太郎(弁護士)


 ジャーナリズム、報道の根拠たる表現の自由(憲法21条)には、一私人の表現行為とは異なり、あえて憲法が報道主体=マスコミに与えた特殊な役割がある。表現の自由の「公共的使用」の観点である。



 一つは、権力を監視し、現権力に対する絶え間なき批判的吟味を繰り返し続けることにより、権力による正統性調達の再生産を常に促すことである。権力は、我々国民から正統性を付与されるために努力せねばならないのだ。我々一人一人には、日々の生活があり、権力に張り付いて常に監視し適切に情報を得ることはできない。だからこそ、国民が負託した権力を適切に運用しているかどうかを国民の代わりに常に監視する責務を課されたのが、マスコミが享有する表現の自由の内実の一つである。



 もう一つが、あらゆる価値観が公的空間にあふれるべく、多様な情報を流通させることである。多様な情報があまねく社会に行き渡ることによって、我々は自分自身の善き生の構想をより「善く」する材料を得る。ひいては、民主主義的決定の際の人々の熟議と熟慮の一助となることで、その特定の社会の民主主義を円熟させる。公共空間をより豊か(rich)にするために、マスコミには表現の自由の行使にあたって厳しい自己規律が要求される。



 そしてこれらマスコミの役割に通底しているのが、「公共性」という要素であり、だからこそマスコミの表現行為には、権力や民主主義という公共性に奉仕する専門職能集団として、特に憲法上の保護が及んでいるのである。



 果たして、近時の新聞やテレビワイドショー及び週刊誌報道は、憲法が期待した目的に適っているのか。報道の自由の名の下に、まるで公共性を持たない報道を一方的、一面的に流し続けるさまは、自らを支える「報道の自由」と「公共性」を掘り崩し、自壊的であることにすら無自覚であることに恐怖すら覚える。



 また、政府広報に堕している一部新聞・テレビは、憲法がマスコミに特に与えた公共的使用の責務に応えておらず、憲法典が課した表現の自由の公共的使用という責任からすれば、完全な「任務懈怠」である。政府にも正規の広報はいるので、そのようなマスコミはぜひ心配せずに、今すぐ表現の自由の本意を理解し、権力監視に勤しんでもらいたい。


 これから来る憲法改正論議についても、マスコミやジャーナリズムによる適切な情報の流通と共有が極めて重要となる。戦後日本社会を形作ったという意味でも最も「公共的」な議論の対象たる「憲法」について、報道はぜひそのレゾンデートル(存在意義)たる公共性を今一度追求してほしい。



 さて、話題はその憲法自体の改正議論に移りたい。



 憲法という法規範は、本来、全く相いれない価値観を大切にしている個人がそれぞれ「自分らしく生き」ながら「共生」を図るという、二律背反を克服するための極めて包容力の高い寛容な法規範のはずである。しかし、ひとたび憲法が議論の対象になると、激しい思想的分断を生んでしまう。日本国憲法が、戦後日本の公論・思想空間の分断を助長してしまっていたといっても過言ではないのである。


 これからの憲法論議は、この分断を超える、分断を治癒する、誰も置き去りにしない憲法論議を涵養すべきである。


 憲法の本来の包容力の源泉は、憲法を憲法たらしめている自由や権利、そしてそれを保障するための厳格な権力統制の仕組みといった普遍的価値である。憲法論議も、この価値を社会の中で実践するにはどうすべきか、という大命題からスタートすべきである。重要なのはこの憲法的な価値を守ることであって、「憲法典」という今ある成文憲法を守ることではない。これは、成文の憲法典を持たないイギリスでも「憲法改正」論議があることを考えれば、「憲法改正」=「憲法典改正」ではないということは容易に理解できるのではないだろうか。


 今までの「改憲/護憲」の議論は、「日本国憲法」という特定の憲法「典」を改正するか否かに問題が矮小化され、いわゆる「改憲」VS「護憲」という教条主義的二項対立に膠着してしまう。改憲論議も、いわゆる憲法が掲げる諸価値や権力統制を強化するために改正が必要か否かという視点で進めていくべきである。


 すなわち、憲法も国家統治のための「法」なのであるから、過度の思い入れなどの情念や、詩的・抒情的な創作意欲などで改正の是非を議論すべきでないのはいうまでもない。国の政治の在り方や、これを構成する市民社会の自由及び権利について、どのような制度設計をすべきなのか、まずはこの大枠で大上段のビジョンが欠かせない。


憲法はこの社会とは独立して真空状態では存在しえず、この社会を構想し規律する法規範である。憲法改正論議も、現代の生ける社会が抱える権利衝突や社会的病理現象に対して、憲法がどのような応答ができるのかという巨視的な視点から、個人の権利の拡充、権力均衡の回復、熟議民主主義の再興、等の大きなテーマや問題意識の設定から出発しなくてはいけない。この、テーマやビジョンの設定こそ、政治家の仕事である。


 この、①政治哲学や国家ビジョンがあるからこそ、②そのテーマを実現するためにどのような改正項目が挙げられるかが俎上に上り、③挙げられた改正項目をどのように変えるかの提案から④具体的な条文案へと落とし込まれる。


 このような思考の順序をたどれば、「憲法改正論」として議論すべきは、「憲法典」に限られない。いわゆる「憲法附属法」(法律や規則も含む)も含めた、壮大な「憲法改革」とでもいうべき一大工事となる。憲法を頂点とした法秩序全体と現実の社会との間を行き来し、これらを横断的に見渡した構想を掲げることこそ、「憲法改正」である。


憲法を取り巻く公論が、憲法の役割や存在意義そっちのけの教条的二項対立に分断されている間に、憲法が保障する権利の網の目からこぼれている個人はいないか、この憲法が権力を縛った鎖は錆びていないか、我々の声を国家統治に通す「民主主義」という名のパイプは詰まり気味あるいは歪(いびつ)な形になっていないか。残念ながら、これらには悲観的な回答をせざるを得ないと考えている。


 9条は交戦権と戦力を否定しながら、自衛隊を保有し、政府解釈でかろうじて縮減している“とされてきた”自衛権も、その政府解釈によって集団的自衛権の行使まで容認された。この点、国際法(国連憲章51条)上、主権国家には(個別的・集団的)自衛権の行使が認められていることは当然だが、国際法上適法に認められた武力行使が(個別的・集団的)自衛権であり当該武力行使が国際法上どのように評価されるかということと、国内最高法規である憲法によって特に自衛権の行使の範囲(武力行使の発動要件)を規律することは別である。



 規律された要件の下で行われた武力行使が国際法上どのように評価されるか、それだけのことだ。憲法で自衛権の発動要件を主権国家がその国の事情で縛ることは国際法上の自衛権の存在を否定することにはならないし、当然、憲法で国際法上の自衛権を否定したり創設したりすることはできない。国際法至上主義の立場からこのことを意図的にミスリードして、「自衛権の規律は国際法でしかできない」という見解も存在するが、国家の主権を認め国内最高法規(=国民意思)で武力行使の発動を規律することの批判になっていない。


 さて、国家最大の暴力たる軍について「無き者」にされている憲法では、軍について規律することはできない。軍を前提とした法秩序を前提としていないからである。軍の存在を真正面から認め、これを国会(シビリアンコントロール)、内閣(内閣の権能としての軍事の明記)、司法(軍法会議の創設)、財政(予算措置からの統制)という、統治規定の総力戦で統制していく。そして、9条の魂は「軍縮」なのだから、立法技術的視点は措(お)いても、その魂を刻み込むべきだ。



 軍事こそ、統治の技術の粋を集めて規律すべき最優先最重要課題であり、これを放置しては「立憲主義」に悖(もと)る。



 また、憲法の規定はいわば刑法でいう構成要件であり、合憲か違憲かの判断基準を提供する。しかし、判断基準だけでは、違憲の状態を是正できない。つまり、大事なのは基準違反の是正を担保する「実行力・執行力」である(民事では強制執行、刑事では刑の執行により担保されている)。これが伴ってこそ、法規範の実効性が生まれる。今までは、日本国憲法は、まさに「公正と信義」に信頼して運用されてきたため、細かく規定しなくてもその「行間」を「抜け穴」として行動する為政者は幸いにも現れなかった。


 しかし、安倍政権の登場により、「行間」は「抜け穴」と読み替えられ、そのエアポケットで権力者は縦横無尽にふるまっている。「行間」の番人であった内閣法制局も今や人事を通じて骨抜き状態で機能していない。


 現憲法ですら「違憲」と判断されうることにお構いなしなのだから、「違憲」のハードルを下げた(違憲と判断しやすくする)ところで、守られないという点では変わりない。すなわち、これを強制的に是正する「仕組み」が必要である。


 具体的には、憲法裁判所の創設によって憲法の規範性・強制力を担保すべきである。司法官僚組織とは独立した憲法裁判所の創設は、最高裁改革にも着手することを意味し、ここに真の司法制度改革がスタートするだろう。最高裁と政権与党の間の、“法律に違憲判断をしない代わりに最高裁には手をつっこまない”という緩やかな「共謀」は、司法権の独立と権力統制機能を画餅にしつつある。このような改革案は、野党こそ提起できるものではないか。


 その他、「個人の権利保障の拡充」というテーマでは、その実行力の担保として今見た憲法裁判所の創設が挙げられるが、プライバシーや知る権利、LGBT(性的少数者)の権利についても議論すべきだ。「権力統制・権力均衡の回復」としては、9条を筆頭に、国会権能の強化と行政府の統制も議論せねばならない。先般問題となった委員会での質問時間の配分問題も、規則レベルだが、「改憲論議」の枠内で行うべきである。議会の不文律で重要なものは明文化すべきだ。2008年フランスの改憲議論や、近時のドイツでの議会改革の改憲論議でも規則改正や明文化の議論が活発に行われている。


 また、日本固有の「権威と権力」の均衡を担う皇室制度についても、改憲論議の中心的課題であり、女性宮家の創設及び女性・女系天皇について皇室典範の改正論議は、改憲構想の中で語られるべきである。「熟議民主主義の再興」では、参議院改革、地方自治制度、選挙制度、国民投票制度(国民投票法含む)の再考、外国人の地方参政権など、多様な民意の反映のための制度構築の見直しをしなければならない。


 また、「主権の回復」として、日米地位協定の改定も9条改正とセットで改憲論議に含まれるだろう。


 以上は、憲法の保障する普遍的な価値や立憲主義を強化する改憲提案の一部でしかない。


 これらから逃げた「改憲論議」は、小手先のまやかしであるし、安倍改憲(加憲)論はまさに小手先のコンセンサス重視の「欲望充足改憲」であり、まったくビジョンも一貫性も胆力もない(個別の問題点の指摘はすでに大幅にオーバーした紙幅の関係上別稿に譲る)。安倍加憲や立憲主義的改憲に対する態度決定は、「改憲派」や「立憲主義」を名乗る人々にとってのよきリトマス試験紙となるだろう。



 戦後70年の日本の歩みを肯定的に振り返りながら、安倍政権が登場した現代社会において、憲法を権力統制規範として甦らせ多様な価値観を奉ずる個人の権利をすべて抱擁する寛容な法規範として再定位するべきだ。改憲についての「政治的状況」や「タイミング」を重視する“護憲”的な言説ほど憲法を貶(おとし)めてはいないか。今だからこそ、運動論ではなく理論で戦うべきときではないのだろうか。


 憲法の根源的な価値は「あなたがあなたであるということだけで尊重される」ということであり、人は誰しもがどこかを切り取れば少数者である。すなわち、誰もが憲法の当事者であることからすれば、改憲論議もすべて我々一人一人のものである。政治、市民、専門家、すべての知性を結集して、誰もが当事者の憲法改正を語れるプラットフォームの醸成をしていきたい。